沿 革

沿革

三丁目堰は、藩政初期に構築されたとみられ維新前は仙台藩の管理に属し、主として本樋の修築等の事業を施した、維新直後は地元長の管理となり明治20年以後は遠田郡長の管理に移ったが、同23年普通水利組合法の制定により、三丁目堰普通水利組合が組織され、同31年には石造りの清水閘門が竣工した。大正15年郡役所制度の廃止に伴い、管理者は遠田郡長より田尻町長に指定移管となり爾来、歴代の田尻町長に引き継がれ、田尻・沼部・富永・宮沢・東大崎の関係地区より選出された13名の組合会議員により運営されてきた。その後、土地改良法の施行に伴い、昭和27年7月長岡水門・二口堰・薬王神堰・松の影堰の4組合を吸収合併し、同年8月1日宮城県知事の認可を得て、三丁目堰土地改良区に改組された。以後、数次に亘る取水堰の改造が行われたが、昭和41年6月、本改良区取水堰と約3000メートル下流にある桜の目堰土地改良区取水堰が共に被災し、特に桜の目取水堰は取水不能の壊滅的な打撃を被り、同42年県営事業の採択で桜の目堰を三丁目堰に合口し、総工事費2億3300万円を投じ、同44年3月現在の統合堰が完成した。この統合堰の完成と併せ、江合川左岸地域の7用排水改良事業が県営事業として施工されることとなり、その負担団体の三土地改良区と重複している2土地改良区との間に合併の気運が高まり、先ず、水系を同じくする三丁目堰・桜の目堰の両改良区と全地域が重複している三高野の三土地改良区が合併することとなり、同53年2月10日合併認可を得ると共に同年4月1日三丁目堰土地改良区から田尻川沿岸土地改良区と改称した。その後沼部土地改良区と六軒丁土地改良区が60年3月合併、同年5月沼部土地改良区より合併の申し入れがあり、又、県より統合整備推進地区の指定を受け、合併推進協議会を設立し、県を始めとする関係行政機関の指導助言を得ながら協議を重ね幾多の困難を排し、紆余曲折を経て63年9月30日開催の総代会で合併決議を得て、同年11月1日付けで合併認可を受けた。また、昭和61年から取水源となる一級河川江合川の恒常的農業用水不足と常習冠水地帯を解消するため江合川地区国営事業調査が開始され、平成元年度から4ヶ年の全計調査期間を経て同5年採択着工の認可により、「江合川地区」国営事業を基幹とした土地基盤整備事業を始め、隣接改良区の統合整備の推進が本改良区にとって最重要課題と認識し、これらを一体的に且つ効果的に推進するため、平成6年3月30日開催の総代会の議決を得て、8月1日付けを以て知事の認可を得「江合川沿岸土地改良区」と名称を変更した。更に、平成7年度に宮城県は「第2次土地改良区統合整備基本計画」を策定されたことに伴い、かねて推進中の古川市萱刈・同化女沼・同北部・同清滝土地改良区及び田尻町長沢土地改良区が、平成11年3月30日に江合川沿岸土地改良区に吸収合併の予備契約調印を行い、宮城県知事に同年7月5日付で合併認可申請を提出し、平成11年8月1日付を以て宮城県(農計)指令第24号で宮城県知事より認可され現在に至っている。